パナソニック(旧:松下電器)の歴代社長

名前 評判・実績・経歴など

松下幸之助

(まつした・こうのすけ)

松下幸之助

【就任期間】
1935年12月~
1961年1月

<講演▼>

裸一貫から身を起こし、四畳半の零細工場として出発。パナソニックを世界有数の電機メーカーに育て上げた。

「経営の神様」と呼ばれた。その経営論は、多くのビジネスマンや自営業者らに多くの信奉者を生んだ。

日本の産業史に偉大な足跡を残した。その94年の生涯は、昭和を象徴する立志のドラマ。海外でも「日本式経営の典型」として注目された。大阪を代表する不世出の「なにわ商人」でもあった。

実家は旧家

1894年(明治27年)生まれ。和歌山市祢冝(ねぎ、当時の和佐村)出身。

実家は裕福な農家だった。いわゆる「旧家」。しかし、父親が米相場に手を出し、財産を失った。一気に没落することとなる。

丁稚(でっち)奉公

孝之助は、小学校を4年で中退せざるを得なくなった。8人兄弟(3男5女)の末っ子では、選択肢はなかった。

単身で大阪へ転居。丁稚(でっち)奉公になる。「苦労をかけさせてすまないね」。涙ぐむ母親に送られ、一人で故郷の和歌山市を汽車で後にした。若干9歳だった。

大阪・船場(せんば)で

丁稚奉公の先は、大阪・船場(せんば)だった。船場時代は6年間続くことになる。

最初の数か月は火鉢店、続く5年間は自転車店に住み込みで働いた。いわゆる「小僧」の立場である。

商売を学ぶ

商機を逃さぬ商人の世界だった。礼儀作法にも厳しかった。「船場大学を出たんやで」とは、幸之助さんが好んで口にする言葉だった。ここで幸之助さんは、商いの勘を身に着けた。

店では「幸吉ッとん」と呼ばれた。自転車を買いに来る客に、たばこをよく買いに行かされた。このとき「まとめ買い」をして小遣いを稼ぐことを覚える。20個まとめて買うと1個おまけが付く。次からは買い置きして、さっと客に渡す。おまけの1個分の代金を自分の副収入にした。走り使いの手間も省けるし、早い対応でお客にも喜ばれた。

こうして、船場で経営感覚をはぐくんだ。

電気技術に注目

15歳のある日、使いに出た幸之助さんの前を、大阪市電が音を立てて横切った。電車。すなわち電気の電車である。

初めて見た「電気(エレキ)」の産物。電気が動力の主流になる時代が来ることを直感した。

関西電力に就職

1910年(昭和43年)年、関西電力(当時:大阪電灯)に就職した。16歳だった。7年間勤務することとなる。

まずは見習工になった。電気技術をむさぼるように吸収した。この間、夜間学校に通った。

むめの氏と結婚

20歳で「井植むめの」さんと結婚。1915年(大正4年)だった。

むめの氏は、後に三洋電機を創業する井植(いうえ)歳男氏の実姉である。

むめのさんは、同じ船場で行儀見習をしていた。見合い結婚だった。

独立・創業

関西電力では順調に出世した。しかし、生来の病弱のため、将来の目標を決めあぐねていた。

あるとき、幸之助さんは「おしるこ屋でも、始めてみよか」と、むめのさんに持ち掛けた。おしるこが好物だったからだ。しかし、妻(むめのさん)に強く反対された。

個人事業「松下電気器具製作所」設立

やがて、「電器」に賭けてみようと決断。1917年(大正6年)夏、関西電力を退職した。

1918年(大正7年)3月、75円20銭の資本金で、個人経営の「松下電気器具製作所」を設立した。

3人だけの工場

大阪市北区西野田大開町(現福島区)に、四畳半と二畳の二間しかない家を借りた。松下さん夫妻と、義弟の井植歳男氏の3人だけのちっぽけな町工場だった。

自ら考案した「改良ソケット」の製造に乗り出す。狭い部屋で、原料を溶かしたり、型押しする。

どの顔も真っ黒になった。

最初は全く売れず

だが、製品は売れず、数カ月間、収入はゼロ。夫婦の着物のほとんどが、米に換えられた。

「二股ソケット」が大ヒット

廃業しようとした矢先、大量の注文が舞い込んだ。これで息を吹き返し、有名な「二股(ふたまた)ソケット」の開発に成功した。その結果、業績は一気に好転した。

「二股(ふたまた)ソケット」は実用新案を取った。「砲弾型電池ランプ」も同じく実用新案を取った。これらの商品が大当たりした。

新工場は、増産に次ぐ増産。1927年(昭和2年)の金融恐慌でも、一人の解雇者も出さずにしのいだ。まさに快進撃だった。

戦前の躍進

「ナショナル」ブランド誕生

1927年(昭和2年)には、商品に初めて「ナショナル」の商標をつけた。自転車ランプ、アイロンなどを次々に手掛けた。ラジオの生産も手がけた。

1932年(昭和7年)の春、取引先から天理教への入信を誘われ、本部に案内される。だが、松下氏は天理教の事業と組織力に感心しながらも、信仰心とは全く異なる「啓示」を受ける。それは以下のようなものだった。

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「すべての物質を水のように無尽蔵にしよう。水道の水のように価格を安くしよう。そうすれば貧乏は克服される。わが社の真の使命は、生産に次ぐ生産により、物質を無尽蔵にして楽土を建設することである」
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ラジオ、扇風機、アイロン

やがて、昭和初期の貧しい家庭にも電化製品が入り込む。ラジオ、扇風機、アイロン、電気コタツなど。これに伴い、松下も急成長した。

社名を松下電器産業に

1933年(昭和8年)、大阪市から大阪府門真市に本店と工場を移。1935年(昭和10年)、社名を松下電器産業に改めた。昭和初期には早くも有力家電メーカーとして地位を築いた。

事業部制を導入

1933年(昭和8年)、製品分野ごとに採算の責任をはっきりさせる「事業部制」を取り入れた。商品の研究開発から製造、販売、宣伝に至るまで、自分たちでやるというものだ。

こうして独自の経営論を構築していった。戦後の日本の企業経営のひな型にもなった。

戦中

日本が太平洋戦争へ突入すると、民生用物資は、極端に不足するようになる。

軍の強い要請で、軍需生産に携わった。航空機、船舶の製造などへと手を広げた。「木製飛行機」「木造輸送船」などを生産した。

戦後の公職追放と経営危機

戦後、パナソニックはGHQ(連合国軍総司令部)から財閥指定を受けた。一時、幸之助氏自身も公職追放になった。

会社は危機に見舞われた。債権は全部持っていかれ、戦時中の莫大(ばくだい)な債務だけが残された。仕事はなく、お金も材料もない。そんな状態が数年間続いた。

幸之助個人は1947年(昭和22年)に労働組合などの嘆願運動で公職追放は解除されたが、税金が払えず“日本一の滞納王”と呼ばれこともあった。

復興と「家電王国」

朝鮮戦争の特需が起きる。復興で所得水準が向上した。“家電ブーム”が起きた。

テレビ、洗濯機、冷蔵庫。これが「三種の神器(じんぎ)」と呼ばれた。人々は、狭い家ながら買いそろえた。パナソニックは、これらを、家庭の必需品として提供した。「家電王国」を築いた。

パナソニックは、水道の水のごとく家電を生産し、量産効果で値を下げた。戦後の日本は、孝之助の哲学が実践される格好の場となったのだ。家庭電化は日本人の台所と生活と気持ちを大きく変え、戦後文化のシンボルとなった。

優れた販売力も発揮。宣伝のナショナルといわれるほどの巧妙なマーケティング政策も見せた。

グループ成長

関連企業も軒並み急成長した。日本の代表的な企業集団になった。

人材づくり

松下孝之助氏の経営手法の特色は「分権」システムにあった。若いころから病弱だったこともあり、権限を思い切り部下にゆだねた。

「私はソケットを作ってきたのでなく、人を作ってきた」が口ぐせだった。人づかい、人づくりのうまさは定評があった。

次々と革新的な取り組み

「経営5カ年計画の策定」(1956年)、「週休2日制」(1965年)などの革新的な諸策を打ち出した。

60歳定年、労組の経営参加なども業界に先駆けて導入した。

社長から会長に

1961年(昭和36年)に社長の座を婿養子の正治氏に譲って会長に就任した。

「営業本部長代行」で再び現場に

しかし、1964年(昭和39年)には戦後初の減収減益となったのを受けて、「営業本部長代行」に就任する。自ら第一線を陣頭指揮した。

1973年、相談役に

1973年に取締役相談役に就任。経営の一線を退いた。

後継者の抜擢

1977年、3代目社長として、山下俊彦氏を抜擢した。

山下氏は役員序列25番目というヒラ取締役だった。それが常務、専務、副社長を飛び越し、社長に抜てきされたのだ。“山下跳び”と呼ばれた。

肥大化、硬直化した組織に活を入れることが狙いだった。日本の企業風土の中で、こんな人事は本人の能力いかんを問わず成功しないものだが、山下社長は成果をあげた。

後継者の選択は間違ってはいなかった。

日本トップの資産家

会社の成長につれ個人所得も急伸した。戦後ほぼ一貫して高額納税者番付上位に名を連ねた。

丁稚から出発した歩みから、立身出世の象徴ともみられた。

長者番付1位

1952年(昭和27年)から通算11回、全国高額所得番付(長者番付)で1位となり、長者ぶりを発揮した。

「アメリカなど先進諸国は、いろいろな控除が認められ、実質の税金は日本よりかなり安いと思う。これだけ税金をとれば徳川時代であれば国民が一揆(いっき)を起こしているだろう。所得の8割を税金でもっていかれる。せめて半分は残るようにしてほしい」と憤慨していた。

世界的に見ても長者だった。米経済誌フォーチュン(1988年9月12日号)の「1988年世界のビリオネアーズ(資産十億ドル以上の富豪)」によると、世界の億万長者番付ランキングにおいて、松下幸之助氏(当時93歳)は29位だった。

巨額の寄付

晩年の幸之助氏は、相次いで巨額の寄付をして話題を集めた。

1988年、大阪市で1990年4月から開催される国際花と緑の博覧会(花の万博)に私財60億円を寄付した。

日本版ノーベル賞ともいわれる国際科学技術財団(松下幸之助会長)には、自ら保有する松下電器株式1000万株(時価約250億円)を寄付した。

1989年5月に国際人育成のために設立した松下国際財団(松下幸之助会長)へも松下株式1000万株を寄贈した。

PHP研究所

社会活動にも力を注いだ。終戦直後の1946年(昭和21年)、「PHP研究所」を設立して出版活動を始めた。

PHPとは「繁栄を通じて平和と幸福を」の英語の頭文字を取ったものだ。戦後の耐乏生活の中で、貧乏に対する繁栄を強調したのである。

月刊誌「PHP」は一時、発行150万部を超えた。このPHP研究所から松下さんは、49冊の著書を送り出した。1968年(昭和43年)の『道をひらく』は370万部を発売、ベストセラーになった。

松下政経塾

1979年には私財70億円を投じて「松下政経塾」を創設。若い人材の育成に情熱を傾けた。

日本国際賞

ノーベル賞と同額の「日本国際賞」を設けた。

人柄

気さくな人柄で知られた。「もうかりまっか」の気取らぬ大阪弁があいさつ代わりだった。

死去

享年94歳。大往生だった。1989年(平成元年)4月27日、大阪府守口市の松下記念病院で死去した。

死因は肺炎だった。1989年4月5日ごろから、かぜをこじらせてせき込む状態が続き、食欲がなかった。治療を続けていたが、4月25日に病状が悪化した。

松下正治、孫の正幸、谷井昭雄社長(当時)らが見守る中、27日午前10時6分、眠るように息を引きとった、という。

晩年の様子

晩年の松下さんは「130歳まで生きて長寿記録をつくるんや」と話していたという。

1985年ごろから、大阪府守口市の松下記念病院の7階に特設した3Kの居室を自宅代わりにして暮らしていた。

毎週報告を受ける

頭脳の目立った衰えはなく、まくら元に「会社四季報」を置き、週1回、会社幹部が病院に出向いて説明する経営報告を聞くのを最大の楽しみにしていた。

社長や事業部長を呼んで、事業報告に耳を傾ける習慣は、ずっと続けており、孫で松下電器の取締役・宣伝事業部長の正幸さん(当時43歳)も毎週、広告や宣伝の報告を欠かさなかったという。経営の神様は、最後まで事業に執念を持ち続けたようだ。

他界3か月前にも元気な姿

1987年5月8日、勲1等旭日桐花大綬章を皇居で受章した際は、車いすで出席した。この後、夏ごろから体調を崩し、ほとんど寝たきりの生活だったが、94歳の誕生日を迎えた1988年11月には、祝いに訪れた女子社員と握手した。

亡くなる3か月前の1989年1月10日、枚方市の松下電器体育館で開かれた松下グループの経営方針発表会にも車いすで出かけ、帰り際は社員たちに車から手を振るなど、元気なところを見せていた。

松下正治

(まつした・まさはる)

松下正治

【就任期間】
1961年1月~
1977年2月

<NHK▼>

松下幸之助の娘婿。1961年に48歳で2代目社長に就任した。

華族出身。明治の元勲の一人、平田東助伯爵の孫にあたる。

エリート階級

東京都出身。平田栄二伯爵の次男として生まれた。母は加賀百万石の前田侯爵家の出。

1935年に東京大学(当時:東京帝国大学)の法学部を卒業。三井銀行(現:三井住友銀行)に入行した。絵に描いたようなエリート階級の人間だった。

三井銀行から婿入り

1940年、幸之助氏の娘婿となる。孝之助によるスカウトだった。ほぼ同時にパナソニックに入社した。長女・幸子さんの婿に迎えたのだった。

幸之助氏は一男一女をもうけていた。しかし、長男は夭逝(ようせい)した。

華族家の青年を受け入れた理由について、幸之助は「裕福でカネ目当てでないとわかり、好感を持った」と説明していた。しかし、年月が経つにつれて、孝之助とは価値観が大きく異なる人物であることが明らかになる。

48歳で社長に

監査役や取締役を経て、1949年に副社長。1961年に幸之助が会長となり、正治が社長を引き継いだ。48歳だった。典型的な同族経営のバトンタッチの形となった。

「熱海会談」での幸之助の涙

社長に就任した当時、パナソニックは景気後退や家電ブームの沈静化の影響を受けていた。それに伴い、系列の代理店や販売店が次第に危機的な状況に陥る。そして、1964年(昭和39年)7月、静岡県熱海(あたみ)において、全国の販売会社・販売店の代表との懇談会が行われた。歴史的に有名な「熱海会談」である。

このころ、販売店主たちの大半は赤字に苦しんでいた。会議の壇上で「経営努力」を求める会長の幸之助に対して、店主側は猛反発した。「製品に特徴がない」「社員の態度が横柄だ」などと、非難を浴びせた。幸之助は涙を流して謝罪した。店主たちも泣いていた。

販売店主たちの反感を買う

店主側の反発の背景には、正治への不満があった。「かつて無名の幸之助を支援して一人前にしてやったのに、あいさつにも来ない。正治時代に会社は官僚王国に変わってしまった」などと怒っていたのだという。

孝之助が前線復帰

この後、孝之助は、病気療養中の営業本部業に代わって、「営業本部長代行」に就任する。自ら陣頭指揮を執ったのだ。販売会社・代理店を1地区1社に再編し、同じ地域内での競合を解消した。70歳だった。

社長権限をはく奪され、お飾りに

正治が危機を把握し、対処することができないのは明らかだった。孝之助は人前で正治をなじった。ゴルフが大好きな正治に対して「ゴルフで足を鍛えずに、工場を回って鍛えろ」などと叱咤したこともあったという。

かくして、孝之助は正治に対する不満を募らせ、実権をはく奪していった。専務と常務の権限を強くした。さらに、大番頭だった3人の実力副社長(中川、東、稲井)をそれぞれ「産業機器」「家電」「無線」の総括本部長に任命し、統治させた。社長の正治はお飾りになったのだ。

側面支援にとどまる

社長時代の正治の役割の一つは、莫大(ばくだい)な借金返済のために、地方銀行を回り社債購入のお願い行脚をすることだった。つまり経営の側面支援のようなに立場にとどまるようになった。

不買運動

1970年代に入ると米国市場に対するカラーテレビのダンピング(二重価格)問題が浮上する。日本国内でのパナソニックのカラーテレビの価格は、対米輸出価格より大幅に割高で「二重価格」だと米国で批判された。不買運動にまで発展した。

パナソニックは、新製品の価格を引き下げるなど、消費者運動を沈静化させるために奔走した。

会長に退く

1977年、後任社長に、山下俊彦取締役が昇格した。正治は会長へと退いた。代表権は残した。

新社長を選ぶ決定権を持っていた孝之助に対して、山下氏を推したのは、正治だった。サラリーマン的な「順繰り人事」を無視した大胆な人事だった。これは、創業家ならではの発想だったといえる。

このとき、孝之助がイチオシだったのは、副社長の東國徳氏だったという。しかし、東氏が社長だと、会長の正治と変わらなくなってしまう。

山下社長は「山下革命」を断行し、組織を若返らせた。正治は常務会に呼ばれず、意思決定の中心ではなかった。そして、山下は後任に、谷井昭雄を指名した。

孝之助死去と遺産相続

1989年に幸之助氏が死去する。総額約2450億円という日本史上最高の遺産を残した。当時の公示制度によって異母弟妹4人の名も公表されたことについて、「プライバシーの侵害だ」と怒った。

記者会見で、遺産配分の仕方について「相続人全員から私が一任を受け、まず案を作ったうえでみんなの意見を十分に尊重して理解をいただいた」と説明した。しかし、公示制度については「この制度は日本だけのことではないか。プライバシーをなぜ公表しなければならないのか、社会的にいかなるプラスが得られるのか、理解に苦しむ」と語った。

松下さんは生前、節税対策もしていなかったという。正治は「遺書はないだろうと思っていたら本当になかった。本人は140歳まで生きると言っていましたからね」と語った。

谷井社長と対立

孝之助氏亡き後、正治は谷井社長と対立するようになった。

1991年、谷井社長は正治に対して引退勧告を行った。正治はもうすぐ80歳になろうとしていた。会長から相談役に退くよう求めたのだ。数回にわたり説得するが、拒絶した。拒絶するどころか、谷井を追い落としにかかった。

愛人問題

1992年、正治の愛人問題が発覚した。清水一行が「秘密な事情」で暴露したのだ。

谷井は創業家の動きを強めた。「副会長」ポストを新設した。これは、正治の息子を棚上げするためと見られた。

谷井社長を追放させる運動

このころ、金融子会社ナショナルリースの巨額融資焦げ付きや欠陥冷蔵庫問題など不祥事が相次いだ。

すると、正治は販売店の苦情を聞いて回り、社内報に載せさせた。さらにOBや役員に電話をかけまくり、谷井を辞任へと追い込むべく奔走した。

有力販売店との会議では、同席した谷井氏に発言の機会を与えず、正治が危機的状況を長時間訴えたこともあったという。また幹部社員を前に「こんな経営状態のままでは死ねない。あの世に行ってまで父にしかられたくない」と谷井体制を批判した。

谷井失脚

1993年2月23日にパナソニックは、谷井社長(当時64歳)が相談役に退き、森下洋一副社長(当時58歳)が社長に昇格する人事を発表した。

谷井氏は取締役からも退任させられた。相談役となった。

正治は、幸之助氏の初孫である松下正幸専務を社長の座につかせたいと思っていると、社内では受け止められた。正幸専務は40歳の若さで取締役に就任し、1992年5月に専務に昇格したばかりだった。

正治氏と幸子さんの間には3人の子供がいた。次男の弘幸氏はインディ500マイルレースにも出場したカーレーサーだった。

森下新社長は中継ぎで、ゆくゆくは正幸専務が社長昇格という見方が有力だった。

息子に社長にさせようと画策

その後、自分の長男である正幸を社長にしようとしていた。

1997年、山下・元社長が「世襲批判」を展開するが、「松下家出身だから社長に就任すべきではない、というのはおかしい」として、暗に息子を推した。

大政奉還は失敗

しかし、正治が望んだ大政奉還は実現しなかった。

2000年、森下社長の後任に、中村邦夫氏に就任。正治は代表権が外れて取締役名誉会長となった。息子の松下正幸氏は副会長となり、財界活動に軸足を移した。影響力は確実に弱まった。

2012年6月に退任するまでパナソニックの取締役を約65年間務めた。

財界活動

1973年に関西経済同友会の代表幹事に就任、財界活動に距離を置いていた松下グループの“変身”ぶりが当時話題になった。

死去

2012年7月16日、大阪府内の病院で死去した。享年99歳。老衰だった。名誉会長だった。

山下俊彦

(やました・としひこ)

山下俊彦

【就任期間】
1977年2月~
1986年2月

<NHK▼>

就任期間

9年間

実績

在任9年間に売上高4.6倍、経常利益5倍となった。陰りが見えていた見えた松下を再生させた。

成功体験が色濃くあった「家電の松下」を変えようと奔走した。

家電以外の成長分野への投資を断行した。

半導体や事務機器などに事業の幅を広げた。

総合電機メーカーへと進化させた。

高齢な幹部を切り捨て、若手を抜擢する人事を断行し、組織の若返りを図った。

産業分野の強化

山下時代のパナソニックは、「家電の巨人」から「総合電機」へと大きく舵を切った。とくに産業機器の分野を最大速力で育てた。具体的には以下の事業だ。

  • ・情報機器
  • ・FA(工場の自動化装置)
  • ・半導体
海外進出の積極化

海外へも積極的に進出した。

就任直後から家電業界では、日本製カラーテレビに対する風圧が強まった。貿易摩擦が大きく取り上げられるようになった。

日米間の経済緊張が高まり円相場は急騰した。それでも、在任した9年間連続で増収増益を果たした。

ビデオではVHS方式を推進した。素早い決断だった。ソニーなどが主導したベータ方式との激しい争いを経て、家庭用の世界標準規格となった。

世代交代

当時のパナソニックでは「大企業病」が進行していた。創業期からの功労者らに退任を求めて世代交代を進めた。組織の見直しを行った。

松下幸之助・相談役を「家長」とする家族経営的色彩が濃かった松下の体質に、果断にメスを入れた。

厳しい人事を断行

具体的には、就任後間もなく、東、稲井隆義、中川懐春、谷村博蔵の先輩四副社長の首を相次いで切った。

厳しい人事管理を行った。事業の判断はすべて事業部長にさせ、結果が悪ければ首をすげ替えるというスタンスだった。営業部門長会議でも、成績順にABCと席を分け徹底的に絞った。

販売体制の再編

国内家電市場の成熟化や利益率の低下などに危機感を強め、販売体制の再編など矢継ぎ早に手を打った。

ヒラ取締役からの大抜擢

26人の取締役のうち25番目の平(ヒラ)取締役から社長に大抜てきされた。有名体操選手の跳馬の技になぞらえ「山下跳び」と称された。

創業家以外からの初めての社長起用という点でもインパクトがあった。創業者の松下幸之助氏に見込まれた結果だった。

エアコン事業で大活躍

エアコン事業担当だった。低迷していたエアコン事業の品質向上に事業部長として取り組んだ。一躍シェア首位を獲得した。その手腕が評価された。

松下幸之助は「役員の誰も言わないなか、ちゃんと意見を言う人間だ」と評していた。

幸之助にも臆せず発言

就任会見では、当時会長だった松下氏に対し「選んだ側にも責任がある」と発言した。自らを指名した創業者、幸之助にも臆せず発言する姿が、世間に鮮烈な印象を与えた。

妻の貴久子さんは「『今日こそ(社長就任を)本当に断ってくる』と言って家を出て行きました。2、3回断ったと思います」と語っていた。

キャラクター

歯に衣(きぬ)着せぬ硬骨漢。「正しいと信じることを直言できる人物だった」という評判だった。社長就任後に先輩格の副社長を次々と辞めさせたのもその一例だった。

「得意淡然、失意泰然」を座右の銘とした。得意のときにおごらず淡々として、失意のときもあせらず、うろたえずということを実践した。

率直な発言がときに物議を醸したが、当時を知る人は「言い方はストレートだが、とても温かい人だった」と振り返る。

プライベート

定時に退社し、趣味の時間を人一倍大切にした。ジョギングや登山に打ち込んだ。

登山はイランなど海外の山にまで出掛ける熱の入れようだった。アフリカ最高峰のキリマンジャロなど5000~4000メートル級の山々を制覇した。

社長時代には会社に内緒でマラソン大会に出場した。碁を打った。

若いころから残業は極力せず、自宅で晩酌を楽しみ、好きな読書にふけった。自宅の一室を丸々書庫にするほどだった。「給料はお酒と本に全部使った」と言っていたという。

出生

1919年に大阪市に生まれた。

学歴

大阪市立泉尾工業高校卒業(1938年)

高卒で入社した。たたき上げの技術者である。

入社

1938年(昭和13年)

社内キャリア

主に電球事業部など製造現場で働いた。頭角を現したのは、1965年の冷機(エアコン)事業部長時代だった。

当時のエアコンは冷房機能だけの典型的な夏物商品。冷夏で出荷が鈍ると努力不足を棚に上げて自然現象のせいにしていたという。山下氏は過去20年間にわたり7月の真夏日の日数を調べ上げ、「計画生産」を導入して不振事業を立て直した。

1974年に取締役に就任。

社長退任後

松下家の世襲を批判

相談役だった1997年には「創業者の孫というだけの理由で松下正幸氏(現パナソニック副会長)が副社長になっているのはおかしい」と世襲を批判した。

自らは新設した副会長のポストにも就かず、1986年2月、取締役相談役に退いた。創業家の世襲を批判して議論を呼んだとき、「幸之助も同じ考えだった」と説明した。

死去

2012年2月28日未明に死去した。92歳だった。老衰だった。

葬儀は近親者のみで執り行った。喪主は長男の一彦(かずひこ)氏が務めた。

追悼コメント
中村邦夫会長(当時)

「合理的な考え方と決断の早さに敬服し、範としてきました」

谷井昭雄

(たにい・あきお)

谷井昭雄

【就任期間】
1986年2月~
1993年2月

<セミナー▼>

学歴

1923年、神戸工業専門学校(現神戸大工学部)卒業

就任時の年齢

57歳

出身

大阪府

前職

副社長

社長昇格人事

山下氏は、谷井氏が副社長に就任した1958年当時から、谷井氏を後継者にしたいと考えていた。

山下氏は、無名の取締役から大抜てきを受け「山下跳び」と騒がれた。そこで山下氏は、「私が就任したときのような異常事態を繰り返してはかわいそう」と気を使い、次はこの人、と社内外にわかるよう育ててきた。

副社長として「アクション61」を推進役

谷井氏は副社長時代、中期経営計画「アクション61」(1983年開始)の推進の責任者に任命され、実績を残した。

65歳前後で退くのが慣例に

前任の山下社長が66歳になっていた。初代社長の松下幸之助氏(当時:相談役)、2代目の松下正治氏(当時:会長)はいずれも、65歳前後で社長を退いていた。

谷井氏が社長に昇格する人事は、1986年2月19日の株主総会後の取締役会で正式決定した。

正治氏は会長にとどまる

山下氏は、取締役相談役に退いた。一方で、松下正治氏は会長にとどまった。これが大きな禍根を残すことになる。

孫の正幸が取締役に

同時に、創業者の松下幸之助相談役の孫で、松下正治氏の長男、松下正幸・洗濯機事業部長が取締役になった。40歳という若い年齢でのボードメンバー入りとなった。

正幸氏は慶応大学卒業後の1943年にパナソニックに入社した。将来、松下家から社長が出る場合の最有力候補と見られた。

キャラクター

ミスを見つけると厳しく注意するが、あとは飲み屋へ直行。酒は飲めないのに、社員たちととことん付き合う。

「職場は一将の影」が座右の銘。関連会社の役員への根まわしにも気を配った。自ら「情の人間」と言っていた。

大阪府交野市の郊外にある自宅の書棚には、中国の史記全集が並ぶ。趣味は寺を回って、仏像を見ることだった。

キャリア

中途入社

1956年(昭和31年)、パナソニック入社。中途採用だった。

大学卒業後、2つの会社に計8年間勤めていた。大阪の繊維メーカー「シキボウ」(敷島紡績)と、中堅の金網メーカーである。

製造畑

機械設計の技術者である。パナソニックでは一貫して製造畑を歩いた。

録音機部門に約17年の長期にわたって在籍した。先発のソニー追い上げに苦闘した。

ビデオレコーダーの立役者

ビデオの開発には、当初から携わった。出遅れていたビデオ開発を引っ張る存在だった。1972年にビデオ事業部長になった。

「松下電器(パナソニック)に谷井あり」の評判がたったのは、ビデオ戦争に勝ち抜いてから。ベータ方式のソニーに先を越されていたが、VHS方式で当時世間をあっと驚かせた4時間録画を可能にし、米国市場を制覇した。パナソニックとJVC(日本ビクター)が率いるVHSが勝利する立役者となった。

赤字だったビデオ事業部は躍進し、「ミスターVTR」と呼ばれた。

役員歴

1979年取締役。常務、専務を経て1983年2月から副社長。

社長時代の実績

事業部制の改革

パナソニックは当時、「事業部制」の弊害が目立ち始めていた。事業部間の激しい競争が起き、新しい技術や優秀な人材は他の事業部に出さないという閉鎖性を社内に生み出されていた。複数の事業部でワープロや電子黒板などが作られ、同一ブランドでばらばらに売られるという現象まであらわれた。

そこで、谷井社長は、「事業部制に横串(くし)を刺す」狙いから、1986年6月、半導体、オフィスオートメーション(OA)など重点分野に担当役員を置き、事業部間の調整を命じた。

営業体制の改革

全国に2万以上の販売店を持つ販売面でも、1987年、家電、設備機器、情報システムなど商品分野別に5つに分かれていた営業本部を3営業本部に改編し、顧客別、市場別の営業体制にした。

「ナショナル店会」を解散

「ナショナル店会」を解散した。創業者、故松下幸之助氏がつくった販売店網の組織だ。

ナショナル店会は、パナソニックだけを扱う電気店の集まりとしてスタート。1957年に創業者の松下幸之助氏の発案で誕生した。他社もこれにならって相次ぎ同様の系列店をつくったほど当時は画期的だった。

東芝(約1万2000店)の2倍以上の店を擁し、パナソニックの販売力の強さを裏打ちする組織として他社のせん望を集めていた。

ナショナル店会は解散後、市場密着型優良店を意味する新組織「MAST(マーケットオリエンテッド・エース・ショップ・チーム)」に移行した。

積立金制度

積立金制度もなくし積立金は返還した。代わりに「ショップ共栄制度」を設け、売上高の1%を一律に積み立て、月商規模で1口1000円の積み立て権利を与えた。

リベート制度の見直し

リベート制度も大胆に見直した。

ユニバーサル買収

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副社長4人制を復活

副社長4人制を復活した。以下の4名である。いずれも経営の中枢を担った。

  • 佐久間曻二(しょうじ)=営業・販売担当
  • 平田雅彦=経理担当
  • 水野博之
  • 村瀬通三

創業家への引退勧告

谷井氏の松下正治会長への引退勧告を行った。これは、創業者・松下幸之助氏からの事実上の遺言を実行に移したものだった。

ジャーナリスト、岩瀬達哉氏の著書『パナソニック人事抗争史』に掲載された水野博之氏(元副社長)の証言によると、1980年に孝之助は社長時代の山下俊彦に対して、娘婿である正治氏を引退させるよう依頼したという。依頼内容は「ポケットマネーで50億円用意するから、正治に渡して引退させる。経営にはいっさい口出ししないように約束させてくれ」というものだった。

しかし、山下氏は社長時代、この依頼を実行できなかった。次の谷井氏に重要課題として引き継がれた。

拒否される

谷井氏は、1991年、引退勧告をついに実行に移した。同年3月の好決算を受けて、会長から相談役に退くよう、直談判を行ったのだ。

80歳になったので、という理由付けもあった。孝之助も80歳で相談役になっていた。

しかし、正治会長は抵抗した。それどころか、谷井氏の経営方針に次々と反対するようになった。プライドが高いという正治氏の性格が影響したようだ。

正治会長が批判を展開

正治会長は販売店から聞いた不満を社内外に公言するようになった。たとえば、1993年2月4日、本社やグループ企業のトップを集めた経営責任者会議で、小売店の声として、昔と違って、ここ4~5年、事業部長ら松下の幹部がさっぱり訪問しなくなったことを紹介した。

1993年1月の経営方針発表会では、「幸之助創業者には、存命中は叱られどおしだった。あの世でも叱られないように、しっかり頼む」と呼びかけた。幸之助氏を引き合いにだしての谷井批判だと受け止められた。

対立の背景

谷井氏が正治氏に敵視された理由としては、引退勧告以外にも、谷井氏の以下の取り組みが影響していると見られた。

  • 副会長制の導入(正治氏の息子であり、孝之助の孫である正幸氏を副会長に棚上げするための方策だと受け止められた。正幸氏は社長になる器でないとの評価が優勢になっており、早めに手を打つ必要があった)
  • 米国パナソニック会長から、正治を外す。

不祥事が連発

谷井社長の在任中の後期に不祥事が連続して起きた。

証券会社から株投資の損失補填を受けたことが1991年発覚した。金融子会社「ナショナルリース」が料亭の女性経営者に巨額の融資をして焦げつかせた。

1992年夏には欠陥冷蔵庫の大量発生事件が起きた。さらに、業績が大幅に悪化してきた。

1992年3月、谷井社長はナショナルリース問題の責任をとらせ、佐久間曻二(しょうじ)副社長(後のWOWOW社長)を辞任させ、平田雅彦副社長をヒラの取締役に降格させた。

2人は谷井政権を支える要であり、両腕を斬り落としたに等しい。このころから谷井氏は、「メドがついたら社長を辞める」と、周りに漏らし始めた。

創業家による更迭

1993年2月23日、突然、谷井社長は更迭された。正治氏によって、引責辞任に追い込まれたのだ。任期の途中。しかも取締役も付かないただの相談役へと追いやられた。

森下洋一

(もりした・よういち)

森下洋一

【就任期間】
1993年2月~
2000年6月

<NHK▼>

就任時点の年齢

58歳

出身地

兵庫県

前職

副社長

初の営業畑トップ

法人向け営業畑を歩んだ。

官庁や企業に大型モーターなどを販売する部署などにいた(特機営業本部など)。売れないので有名といわれた松下のモーターを地道に売り歩いた。

「事業部長」の経験はなかった。生産現場での実績がない人は社長になれない、とも言われたなかで、営業一筋の人が初めて選ばれた。

調整型

上司への忠誠と従順な姿勢でトップまで上り詰めたと言われていた。調整型の経営者だった。創業家に気を使いすぎて社内が迷走した。液晶テレビなどで出遅れた。

社内キャリア

1957年、関西学院大学商学部卒業、松下電器産業(パナソニック)入社。

バレーボール選手

関西学院大学でバレーボール部主将だった。バレーボールの実業団の選手として、パナソニックに入社したのだった。

管理職歴

以下の中間管理職または管理職を歴任した。

  • 東京情報システム営業所長
  • 特機営業本部長
  • インダストリー営業本部長
  • リビング営業本部長
直前に副社長に

1987年に取締役就任。家電営業を担当した。

家電担当の営業本部長になると、創業家の正治会長に報告に行くようになる。取締役会の中で、正治会長への「報告役」となった。正治会長のお気に入りとなった。

1990年に専務取締役。1992年に副社長。専務から副社長に就任したのは、社長決定のわずか2カ月前だった。

就任後の取り組み

バブル崩壊後の1993年に就任した。バブル期に傷んだ財務体質の改善に取り組んだ。

ユニバーサル売却で1642億円の損失

谷井社長の路線を否定した。例えば「事業本部制の廃止」を後退させた。そして、谷井時代に買収したハリウッド映画会社「ユニバーサル」(MCA)を売却した。1996年3月期決算で売却損として1642億円の特別損失を計上した。(参照:スナップアップ投資顧問

液晶で遅れた

テレビ事業では、ブラウン管に執着した。その結果、液晶への投資が遅れた。

創業家の扱いで迷走

1996年には創業家・松下正治氏の長男、正幸氏を副社長に昇格させた。次期社長人事での「松下家への大政奉還」が取り沙汰されるようになった。

ところが1997年、谷井氏の前任者で当時相談役の山下俊彦氏が大阪市内のパーティーで記者団に対し「創業者の孫というだけで副社長になるのはおかしい」と批判。結局、2000年の正幸氏ではなく中村邦夫氏を後任社長に選んだ。

社長就任時点の私生活

大阪府寝屋川市内で富士子夫人と2人暮らし。2人の息子は結婚して独立。

趣味(社長就任時点)

  • 週に一度の水泳。
  • テニス
  • ゴルフ

座右の書

松下幸之助「実践経営哲学」

森下体制

<役員陣>を開く▼

※1993年3月時点

役職 名前 年齢 概要
取締役会長 松下 正治 80 創業者・故松下幸之助氏の娘婿
取締役社長 森下 洋一 58 1993年2月23日、副社長から昇格。営業・販売畑
取締役副社長 水野 博之 63 研究開発畑
村瀬 通三 60 製造畑
専務取締役 豊永 恵哉 63 国際・渉外担当(通産省出身)
高橋 英雄 60 人事・総務担当
松下 正幸 47 国際インダストリー営業本部長(幸之助氏の孫、正治氏の長男)
山本 格一 60 AV本部長常務取締役
関 淳 61 官公需・法人営業担当
市川 和夫 55 システム営業本部長
福原 耕 57 建築エレクトロニクス部門担当
北山 宏 61 東京本部長
田原 久雄 61 海外事業担当
遠藤 士郎 59 リビング営業本部長締役
中山 素平 87 元日本興業銀行頭取
伊部恭之助 84 元住友銀行頭取
平田 雅彦 62 経理担当(1992年3月、子会社の不良融資の責任で副社長から降格)
井村 昭彌 58 米州本部長
東 幹男 58 情報機器本部長
堀内 司朗 58 情報通信研究センター所長
杉山 一彦 56 生産技術本部長
土方 宥二 59 宣伝・デザイン担当
久門 泰 58 広報本部長
新田 恒治 56 中央研究所長
山脇 利捷 55 テレビ本部長
鷲尾 実 57 法務担当
吉田 和正 56 エアコン本部長
古市 守 55 MCA担当
長澤 雅浩 55 部品デバイス研究センター所長
榊原 勝朗 55 欧州アフリカ本部長常任監査役
鈴木 孝壽 63
浅井 昭次 63
査 役 新井 正明 80 元住友生命社長
藤井 貞夫 72 前松下電工社長
取締役相談役 山下 俊彦 73 元社長。製造畑
相談役 谷井 昭雄 64 1993年2月23日、社長と取締役を辞任。製造畑

中村邦夫

(なかむら・くにお)

中村邦夫

【就任期間】
2000年6月~
2006年6月

<ニュース▼>

社長就任直後、携帯電話やパソコンの失速に見舞われた。2001年度に連結最終赤字4千億円という未曽有の経営危機に陥った。上場後初の営業赤字に転落した。

これを受けて、累計2万人を超える人員削減と、組織改革を断行した。創業者・松下幸之助氏がつくり、不可侵とされた会社の枠組みをいくつも変えた。「創業者の理念以外は全て破壊の対象」とまで言った。長年の事業部制を廃止し、本社部門が力を持つ中央集権化を進めた。さらに、松下電工などグループ内の上場会社4社を吸収し、完全子会社にした。

業績のV字回復を担う「V商品」に、プラズマテレビ、デジタルカメラ、DVDレコーダーなどを選んだ。携帯電話にも力を入れた。売上高は伸び、中村社長が退任した2007年3月期は9兆円を超えて過去最高になった。

しかし、これら中村氏がイチオシした事業は、いずれも薄利多売の時代遅れのビジネスだった。つまり、重点とすべき領域を誤ったのだった。

とくにプラズマは巨額の赤字を出した。プラズマ一点集中路線をとり、液晶で出遅れた。プラズマ工場への投資額は、6000億円を超えた。最終的にプラズマは液晶に完敗し、市場から消えた。パナソニックにとって歴史的な敗北だった。

このほか、ビジネスモデル的には「垂直統合」を志向した。半導体、電子部品からパネル、完成品まで一貫して自社で手がける方向性だった。しかし、後から考えると、これも時代の流れに逆行していた。

1962年大阪大学経済学部卒業、松下電器産業(現パナソニック)入社。国内の家電営業を担当し、英国や米国で現地法人トップを務めた。テレビなど音響・映像の部門責任者を経て、社長就任。

社長になるまで本社勤務の経験がなく、幸之助氏とは「コートを手渡され、(高級で)軽いことに驚いた」程度の接点しかなかった。だが、自宅には、幸之助の著作約100点のほぼすべてが、廊下の本棚にまであふれていた。

大坪文雄

(おおつぼ・ふみお)

【就任期間】
2006年6月~
2012年6月

津賀一宏

(つが・かずひろ)

【就任期間】
2012年6月~
2021年6月

楠見雄規

(くすみ・ゆうき)

【就任期間】
2021年6月~

パナソニックのスポーツの歴史

野球部の設立(1950年、孝之助時代)

松下幸之助社長時代の1950年、パナソニック(当時:松下電器産業)に野球部が創設された。

社会人野球の大阪大会で13年ぶり優勝(1997年、森下時代)

森下洋一社長時代の1997年5月、野球の全国社会人大阪大会において野球部が優勝した。 13年ぶり4度目の優勝だった。 決勝の相手は、三菱重工神戸だった。 パナソニックは5対3で勝利した。
(参照元:AIレフェリー(AI Referee)

社会人野球の日本選手権で初の優勝(2000年、中村時代)

中村邦夫社長時代の2000年10月、社会人野球の日本選手権(全国大会)において初優勝を果たした。 出場22回目で悲願を達成した。 最高殊勲選手賞は全4試合に登板して3勝をあげた愛敬尚史(パナソニック)が受賞。打撃賞には上中芳仁(松下電器)が選ばれた。
決勝戦の相手は東芝。東芝は2度の優勝経験があった。一方、パナソニック(当時:松下電器産業)は最多出場回数を誇っていた。また、東芝は関東、パナソニックは関西のトップチーム。まさに東西の強豪対決となった。
試合は白熱した接戦だった。8回までは3対3の同点。迎えた9回表、吉田選手が特大のホームラン。勢いづいた打線が一挙に5点を挙げた。
(参照元:AIレフェリー(AI Referee)